自由主義に関しての質問 - BIGLOBEなんでも相談室
私もkannzou001さんと同じく質問させて頂きたい&勉強させて頂きたい立場ですが
他の回答者の補足として記載します。
言葉足らずの点があるかもしれませんがご容赦下さい。
まず自由の定義を明確・簡潔に言語化してみようと思います。
自由とは何でしょうか?
過去に遡れば、人類の歴史とは、身分などの固定により本来人間がとりうるべき選択肢が取れなかった事にあると思います。
職業選択の自由を例に取れば、武士の子であれば武士にはなれましたが、農民の子であれば滅多な事では武士に取り立てて貰えませんでした。また武士にも上級武士、下級武士というヒエラルキーがあり、下級武士の子であれば上級武士にはなれなかったのです。奴隷の子は奴隷、工員の子は工員という訳です。乱暴に言えばそれらは職業選択の自由が無かったのです。
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"どの職業も自由に選択できない"という基本的人権に達しない状態があった場合、それは"自由が無い"と言っても差し支えないでしょう。更に時代は変わって"どの職業も自由に選択ができる"という選択肢が得られた場合、"自由になった"というのは間違いではないと思います。
繰り返しも含みますが、自由とは、人が社会の中で本来取りうるべき選択肢の幅と、その選択肢を選ぶ権利を指します。
つまり、社会にどういった影響を与えようともどういった行動をしても良い、というのが自由なのではなく、社会における人間個人の権利が侵害されているのを回復する到達点が自由なのです。到達点はどこでもいいんじゃない? とその定義を放棄する事は、一見「自由」の範疇に見えますが、私は上記の理由によりそうではないと思っています。
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例えば、とある地方で許婚の慣習があり、名家などに一般の女性が嫁入りしなければならなくなった際には「女性に自由が無い」という事になります。
束縛はあっても、そこの旦那さんがとても良い人で、マンネリで不器用であっても家族を愛してくれるような人格であれば、幸せになれます。
しかし、飲む打つ買うの三拍子で仕事もしない、家族も放置で暴力も振るうとなればそれは不幸せです。
そして後者の場合に女性が相手を選べるようになった時、自由があるという事になるのです。
そして、周囲の人間が、上記の前者後者の両方の例を指して、どこに嫁ごうが、それは女性の自由だよ、というのは到達すべき着地点ではないと思っているのです。
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更に言うと、上記の自由の他、自分自身に統制が効かず、人に迷惑をかける「放縦」も到達すべき着地点とはならないので、自由の範疇には含まれないと思います。
自身の行動により得るべく個人の権利を得たのではなく、社会に対してマイナスの影響を与えた場合、「人が社会の中で本来取りうるべき選択肢の幅と、その選択肢を選ぶ権利」とは認識されません。
他者に迷惑をかけない限り、社会的に見て愚かであるとも、自分に行動の自由が付加されるというのは「愚行権」に当たるでしょう。
さて、話しをお題に戻しますと、自由の種類とは「人が社会の中で本来取りうるべき選択肢の幅と、その選択肢を選ぶ権利」はどこまでにするか? という範囲の定義の問題になると思われます。wikipediaを読む限りでは、基本的自由が新自由主義、より強力な自由主義がリバタリアニズムであると理解しましたが、kannzou001さんの自由が「定義はなんでもいいんじゃない? 」というのであるならば、上記の新自由主義、リバタリアニズムは強力に定義を決める話しなので、新自由主義、リバタリアニズムには含まれないと思います。
恐縮ながら、この「定義を決めない」というスタンスを指す用語を私は存じ上げません。
私は購入してまだ未読なのですが、この基礎的な答えがJ.S.ミルの自由論にあると思っております(三ヵ月後辺りに読む予定)。
ちなみにいくつか告白しますと、モンテスキューの法の精神は自分の中で咀嚼できず、現在読了にチャレンジするも上中下巻のうち上巻で挫折しております。
あとはリバイアサンなども読みたいのですが、その基礎知識となる聖書も読んでおきたいので、自分の中でこの問題を総体として理解するにはしばらく後になってしまいそうです。
こんな感じで浅学の状態なのですが、それらの知識が無い状態として踏まえ、この回答お読み頂ければ幸いです。
投稿日時 - 2012-02-29 23:11:48
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